30年デフレの原因と日本の未来②


―経済学の盲点―

 経済学の発展には目を見張るようなものが感じられますが、しかしそこには大きな課題を抱えてもいました。

 以下で、その課題について見ていきたいと思います。

  1 近代経済学の盲点

 新古典派経済学にケインズ経済学を加えた経済学が、現在の世界的潮流になっていますので、これを便宜上、主流派経済学と言っておきます。

1)金本位制と商品貨幣論

 主流派経済学の世界的な教科書として有名な『マンキューマクロ経済学Ⅰ 入門編』(グレゴリー・マンキュー著、東洋経済新報社、2010年)で、貨幣について次のような記述があります。

「原始的な社会では、物々交換が行われていたが、そのうちに、何らかの価値をもった『商品』が、便利な交換手段として使われるようになった。その代表的な『商品』が貴金属、とくに金である。これが、貨幣の起源である。
 しかし、金そのものを貨幣とすると、純度や重量など貨幣の価値の確認に手間がかかるので、政府が一定の純度と重量をもった金貨を鋳造するようになる。

 次の段階で、金との交換を義務づけた兌換貨幣(紙幣)を発行するようになる。こうして、政府発行の貨幣(紙幣)が標準的な貨幣になる。
 最終的には、金との交換による価値の保証も不要になり、貨幣(紙幣)は、不換貨幣となる。それでも、交換の際に皆が受け取り続ける限り、貨幣(紙幣)には価値があり、貨幣としての役割を果たす。」

 ここで、「交換の際に皆が受け取り続ける限り、貨幣(紙幣)には価値があり、貨幣としての役割を果たす」というのは、「誰もが“おカネがおカネが”と思っているから、紙幣も貨幣としての役割を果たす」ということを言っています。これが現在の主流派経済学の標準的な貨幣論になっています。

 しかし、この場合、過去には金本位制で「兌換紙幣」に“金”の価値が裏付けられていましたが(金本位制)、現在では「不換紙幣」が流通しており、紙幣に価値の裏付けがされていません。

 なぜ、価値の裏付けのないただ同然の「紙幣」が“お金”として流通しているのでしょうか。この疑問に対する答えは主流派経済学にはありません。

 また、貨幣の成り立ちを説明する人で誰も、「物々交換から貨幣が生まれた」という「商品貨幣論」の証拠資料を示すことができていません。あくまでも才能豊かな“人”の創造力に富んだ仮説にすぎません。

2)セイの法則  

 セイの法則を一言で言えば、「供給は自ら需要を作り出す」という考えが基本になっているために、今でいう”デフレ”は考慮されていません。

 ジャン=バティスト・セイが生まれた1767年~ 1832年は 七年戦争(1756~1763)、露土戦争(1768~1774)、アメリカ独立戦争(1775~1785)、フランス革命(1793)、ナポレオン戦争(1796~1815) などが続き、欧州は激動の時代でした。戦乱の時代にはモノ不足が続き、何を作っても不足し、すぐに売れる状況でした。

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 こうした状況をセイは観察し、「供給は自ら需要を作り出す」という命題を導き出したものと思われます。

 しかしこの物不足経済は今の言葉で言えば「超過需要」の経済であり、「超過供給」のデフレ経済をセイの法則は説明するものではありません。なぜなら、生産に対して需要が必ず生まれるのであれば、生産に対して需要が不足するということはありえません。つまり、デフレは起きないということになります。

したがって、主流派経済学はインフレ対策の学問であり、デフレでは全く使えないということが理解できます。 

 しかし、アメリカで発生した世界恐慌を始めとするデフレ不景気は実際にあります。日本はこの20~30年間ずっとデフレです。その日本では、この間ずっと主流派経済学者の言うことを聞いてきました。したがって、日本はデフレの状況下で、この20~30年間ずっとインフレ対策を行ってきたことになります。

 現在行われている、緊縮財政、増税、そしてコスト削減を狙う規制緩和や民営化などは完全にインフレ対策で、現在でも、デフレの日本でインフレ対策が行われていることになります。

 因みにワルラスは、一般均衡理論を構築するにあたって、消費者と生産者の取引はすべて正確に知られており、取引における「不確実性」がないものと仮定しています。

 言い換えれば、市場で一般均衡が成立するのは、情報が完全に皆に知れ渡っており、したがって需給ギャップが存在しない世界、デフォルトが起き得ない世界で可能ということになります。

3)銀行機能と近代経済学

【銀行機能】

 銀行は、個人や企業から預金という形で資金を集め、個人や企業に融資する金融機関です。銀行機能の秘密は預金勘定にあり、この預金勘定が「金融仲介機能・信用創造機能・決済機能」という3つの機能を生み出しています。

◆金融仲介機能

金融仲介機能とは、借り手と貸し手の仲介をすることで、銀行は、お金の運用先を探している預金者と、お金の調達を必要とする企業を見つけ出してくれます。

 ◆信用創造機能

  銀行は預金の一部を現金で手元に残し、残りを貸し出します。企業に貸し出されたお金は取引先に支払われ、取引先からまた銀行に預金されます。これを繰り返すことによって預金通貨というお金が新しく生み出され、銀行全体の預金残高は、どんどん増えていきます。

 ◆決済機能

  決済機能とは、銀行の預金口座を利用することにより、現金を使わずに口座振替で送金や公共料金の支払いなどができることです。

  これらの3つの機能は、すべて銀行の信用に支えられており、信用のある銀行には預金が集まり、豊富な資金が確保されます。

 ここで注目すべき機能は「信用創造機能」で、銀行が資金を民間に貸し出すことによって民間資金は拡大し、経済規模は大きくなります。

 民間銀行のマネーストックには基本、M1、M2、M3があり

M1現金通貨(日本銀行が発行する紙幣や政府が発行する硬貨)+預金通貨(当座預金・普通預金・貯蓄預金等)

M2:M1+準通貨
準通貨とは、解約でいつでも決済手段として使える金融資産。定期預金・定期積金など。

M3:M2に郵便局・農協・信用組合などの預貯金や金銭信託を加えたもの。

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 したがって、通貨には預金通貨があり、実際に市場規模でいえば、ほとんどが預金通貨で占められているといいます。

 

 ここで、信用創造についてみていきたいと思います。

 信用創造とは、銀行は集めた預金を元手に貸出しを行っているのではなく、銀行は貸出しの際、借り手の預金口座に貸出金相当額を入金記帳することで、何もないところから新たに預金通貨を生み出すことができることを言います。逆に借り手の返済によって預金通貨は消滅することになります。

 すべての預金通貨は信用創造によって創造され、このような預金通貨から必要に応じて引き出された現金通貨が市中で流通し、資金需要がなければ銀行は信用創造ができません。現金通貨と中央銀行当座預金は中央銀行の信用創造によって供給されています。また、政府支出によっても預金通貨が創造され、その場合には納税によって消滅します。

 一般に、信用創造は理論的には無制限になりますが、実際には銀行貸し付の限界などによって制限が存在しており、預金の一部をキープしておけば残りを貸し出しに回してもいいという制度のことを、「部分準備制度」と言います。

 こうした仕組みによって、銀行は、預金のかなりの部分を貸し出しに回すことができます。また貸し出しに回さずにキープしておく金額を「支払準備金」といいます。

 図2で支払準備率が10%だった場合、100万円の銀行預金は100×0.1=10万円を支払準備金にすれば、残りの90万円を貸出しに回すことができます。某企業がこの90万円を借り出し、某銀行に預金として預ければ、銀行側に残る預金残高(通帳上の)は100+90=190万円が預金として残ることになり、新たな預金通貨が銀行側に作られることになります。

  こうして、銀行に預けられた預金は、支払準備金を除いて更に又貸しされ、通帳上の預金通貨は増加していきます。こうして銀行が世の中に出回るお金の量を何倍にも膨らませることを、信用創造といいます。

  つまり、銀行は預金を元手に貸出しを行うのではなく、貸出しによって預金という貨幣を創造していることになります。

 これを国債発行で考えれば、政府が国債を発行して銀行が引き受けるとき、銀行が政府に対して信用創造をするということですから、民間の金融資産(預金)の制約は一切受けません。

 最初に銀行が政府から国債を引き受けた時、銀行の日銀当座預金から政府の日銀当座預金に振替が行われ、政府から小切手をもらった企業が銀行から融資金額を引き出すとき、政府の日銀当座預金から銀行の日銀当座預金に振替が行われることになり、日銀当座預金に変化はありません。

 ここでは、政府が100万円の国債を発行して、公共事業を行うとします(図3)。まず、銀行に国債を購入してもらう必要がありますが、そのとき、銀行が開設している日銀当座預金は100万円減り、政府が開設する日銀当座預金にその100万円が振り替えられます。ただし、国債を購入する銀行の日銀当座預金は日銀からの供給ですので、民間預金とはまったく別物です。

 次に、政府は公共事業の発注先企業に100万円の政府小切手を交付し、政府小切手を受け取った企業は、自分の取引先銀行に政府小切手を持ち込み、代金の取り立て請求を依頼し、取り立てを依頼された銀行は、100万円を企業口座に記帳するとともに、100万円を政府から取り立てるように日銀に依頼します。そして、銀行が企業の口座に記帳した瞬間に、100万円が新たな民間預金として生まれることになります。

 銀行から100万円の取立てを依頼された日銀は、政府の日銀当座預金から銀行の日銀当座預金に100万円を振り換えます。この100万円は、さきほど銀行が国債を購入したときに振り替えられたものになっています。

 つまり、銀行の日銀当座預金から政府の日銀当座預金に振り替えられた100万円が、再び銀行の日銀当座預金に戻ってくるわけで、赤字財政支出をしても日銀当座預金に変化は生じないわけですから、国債金利も一切変化しないということになります。

 したがって、国債を多く発行して赤字財政支出を膨らませても、民間の金融資産は変化しませんから、国債金利の高騰など起こらず、逆に国債を発行して財政支出を拡大することで、財政支出額と同額だけの預金通貨が増えることになります。

 問題は、主流派経済学は銀行の「信用創造機能」をモデルに組み込んでおらず、銀行の貸し出しが経済に与える影響を無視したものになっているところにあります。

 特に問題なのは、デフレ経済で銀行貸し出しが極めて低調な時、信用創造も低調になり、経済の血とも言われる「通貨」が縮小化することによって、経済活力が失われるところにあります。 

4)信用貨幣と信用本位制

 主流派経済学は「商品貨幣論」をとりましたが、しかし物々交換から貨幣が生まれたという裏付けは得られていません。そして「商品貨幣論」の基本は物々交換ですが、物々交換にはタイムラグがありません。

 つまり、漁師のAさんが持っている「魚」と、野菜農家のBさんが持っている「野菜」を交換する場合、時間を空けて交換すれば互いの商品は腐ってしまいますから、その場での交換取引が必要になります。

 しかし一方で、次のような場合を多くの人は望むのではないでしょうか。

 漁師のAさんが持っている「魚」を野菜農家のBさんに渡しますが、Bさんは今生産した「野菜」がないので、野菜ができたらAさんに「野菜」を渡すという約束で、魚をもらうことです。この場合、BさんはAさんに野菜返品のための「魚の借用書」を渡せば、何も現物が無くても取引は成立することになります。そして、Aさん、Bさん共に、腐ることを心配しなくても良いことになります。

 こうした取引は「信用取引」と言われます。

 ここで、中野剛志(なかの・たけし)氏の論説を、一部抜き出しでご紹介します。

 『硬貨が発明されるより数千年も前のエジプト文明やメソポタミア文明には、ある種の信用システムがすでに存在していました。

 例えば、紀元前3500年頃のメソポタミアにおいては、神殿や宮殿の官僚たちが、臣下や従属民から必需品や労働力を徴収するとともに、彼らに財を再分配していました。そして、神殿や宮殿の官僚たちが、臣下や従属民との間の債権債務の計算や、簿記として記録するための計算単位として「貨幣」という尺度が使われていました。メソポタミアで出土した粘土板にその記録が遺されているのです。

実際、世界史上、金属貨幣がはじめて鋳造されたのは小アジアのリディアで、メソポタミアや古代エジプトから遥か後の紀元前6世紀ごろのことだとされています。

現在、歴史学・人類学・社会学における貨幣研究によって、「商品貨幣論」はすでに否定されています。「商品貨幣論」のような貨幣論をいまだに信じている社会科学は、もはや主流派経済学くらいのものです。

イングランド銀行の季刊誌(2014年春号)の解説で「信用貨幣論」について説明したいと思います。

「今日、貨幣とは負債の一形式であり、経済において交換手段として受け入れられた特殊な負債である」という文章がありますが、貨幣は「特殊な借用証書」だというのが「信用貨幣論」になります。

「ロビンソン・クルーソーとフライデーしかいない孤島」という架空の事例を考えます。

 その孤島で「ロビンソン・クルーソーが春に野苺を収穫してフライデーに渡す。その代わりに、フライデーは秋に獲った魚をクルーソーに渡すことを約束する」とします。この場合、春の時点で、クルーソーがフライデーに対して「信用」を与えるとともに、フライデーにはクルーソーに対する「負債」が生じています。そして、秋になって、フライデーがクルーソーに魚を渡した時点で、フライデーの「負債」は消滅することになります。

 しかし、口約束では証拠が残らないので、約束をしたときに、フライデーがクルーソーに対して、「秋に魚を渡す」という「借用証書」を渡します。この「借用証書」が「貨幣」になるということになります。

 もう少し複雑な場合を考えて、この島には、クルーソーとフライデー以外に、火打ち石をもっているサンデーという第三者がいるとします。そして、サンデーが「フライデーは約束を守るヤツだ」と思っているとともに、「魚が欲しい」と思っていれば、クルーソーはフライデーからもらった「秋に魚を渡す」という「借用証書」をサンデーに渡して、火打ち石を手に入れることができます。

 さらに、この三人に加えて、干し肉を持っているマンデーという人もいたとします。そして、マンデーも「フライデーは約束を守るヤツだ」「魚が欲しい」と思っているとすれば、今度は、サンデーが例の「借用証書」をマンデーに渡して干し肉を手に入れることができます。

 その結果、フライデーは「秋に魚を渡す」という債務を、マンデーに対して負ったということになります。そして、秋になってマンデーがフライデーから魚を手に入れれば、フライデーの「借用証書(負債)」は破棄されることになります。

  ここで、重要なポイントが2つあります。

 【第一】クルーソーとフライデーの野苺と魚の取引が、同時に行われるのではなく、春と秋という異なる時点で行われること。だからこそ、そこに「信用」と「負債」が生まれ、フライデーが負った「負債=借用証書」が貨幣として機能することになります。

 もしも、野苺と魚を同時に交換する「物々交換」であったならば、取引が一瞬で成立するので、「信用」や「負債」は発生しません。そして、そこには「借用証書」=「負債」=「貨幣」も必要とされないということになります。

つまり、フライデーがクルーソーに「秋に魚を渡す」という負債を負ったために「借用証書」が生まれたように、誰かが誰かに負債を負った瞬間に「貨幣」は生まれることになります。

「貨幣を創造するとは、負債を発生させることだ」ということになります。この点が「信用貨幣論」の最も重要なポイントになります。

【第二】債務を負った人は「借用証書」を発行しますが、誰が発行した「借用証書」でも貨幣として流通するわけではありません。負債には常に、「デフォルト(債務不履行)」、つまり借り手が貸し手に返済できなくなるという可能性があり、そこには、必ず「不確実性」が存在しています。

 したがって、誰の負債でも、貨幣として受け取られるということにはなりません。先ほどのクルーソーたちの島でも、フライデーのことを「あいつは約束を守るヤツだ」と信頼していなければ、誰もフライデーの「借用証書」を受け取らないでしょうから、貨幣として流通することはありません。

 つまり、デフォルトの可能性がほとんどない場合、すべての人々から信頼される「特殊な負債」としての貨幣として、受け入れられ、流通するようになります。

 「信用貨幣論」によれば、円・ポンド・ドルなどの貨幣は、デフォルトの可能性がほとんどない政府(中央政府+中央銀行)が発行する「借用証書」ですから、貨幣として受け入れられ、流通しているということができます。

 ところで、「単なる紙切れの『お札』が、どうして『貨幣』として流通しているのか?」

 この問いに「商品貨幣論」は満足に答えることはできませんでした。

 「信用貨幣論」は、「現代貨幣理論(MMT)」の中心テーマですが、「現代貨幣理論(MMT)」はその問いにこう答えます。

 まず、政府は円やポンドやドルを自国通貨として法律で定めますが、次に何をするかというと、国民に対して税を課して、法律で定めた通貨を「納税手段」として定めます。

 こうすることによって、国民にとって法定通貨が「納税義務の解消手段」としての価値をもつことになり、納税義務を果たすためには、その法定通貨を手に入れなければなりません。こうして、その貨幣に対する需要が生まれます。

 その結果人々は通貨に額面通りの価値を認めるようになり、その通貨を、民間取引の支払いや貯蓄などの手段として、つまり「貨幣」として利用することになります。

 要するに、人々がお札という単なる紙切れに通貨としての価値を見出すのは、その信用証書である紙切れで最も信用度の高い国家の税金が払えるから、というのが信用貨幣論の洞察になります。

貨幣の価値を基礎づけているのは何かということを掘って掘って掘り進むと、究極的な信用度を有する「国家権力」が貨幣の価値を保証しているという認識に至ります。』

 「商品貨幣論」に立脚すれば、貨幣の価値を決定づけるものとして、過去最も価値があるとされた「金」を原資とする「兌換紙幣」が採用された時期がありましたが、各国経済の強弱によって問題が発生し、「不換紙幣」に切り替えられ現在に至っています。

 したがって、現在の通貨の裏付けは無いものになっています。

 しかし、裏付けのない通貨が、果たして流通するものでしょうか。そこには国家に対する信用が「通貨」の裏付けとして存在しているから、流通していると思われます。

 「商品貨幣論」では商品として最も価値のある「金」を裏付けとして「金本位制」が敷かれましたが、「信用貨幣論」では、究極的に国の信用度が裏付けになっていることから、「信用本位制」が成り立っていることと思われます。

 ここで注目すべきは、商品貨幣論」では「負債」が「貨幣」になることはありませんが、「信用貨幣論」に立脚すれば、「負債」が「貨幣」になり、「商品貨幣論」の「金本位制」は、金の保有量によって通貨の発行量には限界がありますが、「信用貨幣論」の「信用本位制」には国の信用を貶めない限り、通貨発行量に限界はないということになります。

 現在の不換紙幣、不換貨幣には通貨発行量に制限はありませんが、それは国に信用を置く、「信用本位制」にあるからではないかと考えられます(信用には限界がありません)。

5)近代経済学の成立条件

 近代経済学の精緻な数理分析を成り立たせる条件として完全競争市場を仮定しますが、完全競争市場が成り立つ条件として、

〇 無数の消費者・生産者の存在
〇 財の同質性
〇 情報の完全性
〇 市場への参入・退出の自由

が挙げられます。

 しかし、一般に提示されませんが、近代経済学の成り立つ最も基本的条件に「セイの法則」と「商品貨幣論」を上げる必用があると思われます。

 「セイの法則」は、「供給は自ら需要を作り出す」というテーゼですが、「セイの法則」が成立するのであれば、需要と供給は常に均衡するので、過剰生産やそれによる不況や失業は生じないことになります。

 自由市場経済は、政府の管理がない需給ベースの経済システムで、消費者と生産者は自由市場へのアクセスを前提として商品価格は自由市場での需要と供給によって決定されます。

 もしも供給が常にその需要を生み出すという「セイの法則」が成り立つのであれば、そこから、「自由市場に委ねれば需給は常に均衡する」という市場原理が導き出されることになります。

 この「セイの法則」は、リカードやジョン・S・ミルといった古典派、そしてジェボンズ、メンガー、ワルラスといった新古典派にも継承され、新古典派に至っては、「セイの法則」は疑うべくもない「ドグマ」となっていきました。

なかでもワルラスは、「セイの法則」が成り立つことを前提に、経済全体の市場の需給が均衡することを数理的に体系づけた「一般均衡理論」を確立することによって、新古典派経済学を主流派経済学に押し上げた中心人物です。そして、主流派経済学は、今でもワルラスが確立した「一般均衡理論」を基に、分析を精緻化させ、拡張しています。

 1980年代以降は、主流派経済学はマクロ経済学も「一般均衡理論」で説明しようとする試みが流行し、「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」と呼ばれました。

 そして、この「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」から、RBCモデル(実物的景気循環モデル)、さらにはDSGEモデル(動学的確率的一般均衡モデル)という理論モデルが開発され、1990年代以降のマクロ経済学界を席巻することになりました。

 しかし問題は、こうしたモデルは全て「セイの法則」を前提にしたものであり、消費者と生産者の取引量やタイミングはすべて正確に知られており、取引における「不確実性」は一切ないものとした仮定が導入されています。

 また、こうした「供給が需要を作り出す」という「作れば売れる」完全雇用の状態で情報の完全性などの現実離れした仮説を導入した、一般人には極めて分かりにくい精緻な数理モデルが政官界、学会を席巻し、他者からの異論を差しはさめなくしているところに最大の問題があるのではないかと思われます。

 また、「商品貨幣論」は、企業への融資が銀行預金として「預金通貨」を生むことを想定しておらず、信用創造が考えられていません。

 このことは、通貨は交換価値としてのみ役立つのであって、政府が国債発行を行って市中銀行から通貨を吸収すれば、銀行の信用創造を考えていませんから、純粋に市中通貨量は減少し、国の成長は抑えられ、また集めた通貨を社会保障費などに使うとしても、生産性の低いところへの資金の再配分になり、国の経済成長にはあまり寄与しないということになります。

 また国債発行額を純粋に「借入金」として捉えるので、この金利負担が経済成長率以上の場合には国の経済成長を貶めると考えることになります。

 こうして国債発行残高を単純に集計することによって金利負担を憂い、国債のこれ以上の発行を抑えるべきとの論説を展開することになります。

 こうして主流派経済学者は、金利負担増を憂いて、将来の消費税を25%程度にまでかさ上げすることを政府に提言することになります。

 しかし現実は全く逆で、国債発行は銀行の与信機能を通じて銀行に預金通貨を生み出し、現金通貨と預金通貨の拡大で経済を大きく成長させるものであることを認識しなくてはなりません。

 したがって、インフレ対策には有効かもしれませんが、デフレ対策には利用できない数理モデルを使って、現実離れした結果を示す主流派経済学者が、政官財界に大きな影響力を持っていることが最大の危機かもしれません。 現在の経済政策を推し進めている主流派経済学には様々な課題があることが分かりましたが、何と言っても大きな課題は、基本、「セイの法則」を理論構築のベースに据える主流派経済学はインフレ対策の学問であり、デフレ経済には適用できないものであるところに、最大の問題があるものと思われます。

(続き)


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