毅然とした「愛」と「武士道」の精神(こころ)


―日本の精神―

1.昭和天皇の慈愛

1)戦後まもなく

昭和20年8月15日の終戦、そして15日後の8月30日、連合国軍最高司令官ダグラズ・マッカーサー元帥は神奈川県の厚木飛行場に到着しました。9月2日、横須賀沖に停泊する米戦艦ミズリー号上で降伏文書の調印が済むと、マッカーサーはGHQ総司令部を横浜から皇居の真向かいに位置する第一生命ビルに移し、占領政策に本格的に着手しました。 

 昭和天皇が米国大使館の大使公邸にマッカーサーを初めて訪問されたのは9月27日のことです。

 天皇・マッカーサーの会見に同席したのは奥村参事官のみでした。

 日本人が会見の内容を初めて知り、深い感動に包まれるのは、それから10年後のことです。

すなわち、「天皇陛下を賛えるマッカーサー元帥――新日本産みの親、御自身の運命問題とせず」という読売新聞(昭和30年9月14日)に載った寄稿が最初の機会となります。執筆者は、訪米から帰国したばかりの重光葵外務大臣です。

 重光外相がマッカーサーを訪ね、マッカーサーの発言を紹介したものです。

重光外相によれば、マッカーサーは、「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである」と述べた後、陛下との初の会見に言及。「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。」

 「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」

 そしてマッカーサーは、このご発言に関する感想を重光にこう述べたといいます。

 「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪を贖うことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした。」

  この天皇のご発言を知らされた重光外相は、次の感想を記しています。

 「この歴史的事実は、陛下御自身はもちろん宮中からも今日まで少しももらされたことはなかった。それがちょうど十年経った今日当時の敵将占領軍司令官自身の口から語られたのである。私は何というすばらしいことであるかと思った。」

そして、次のようなマッカーサーの発言を記しています。

 「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい。」(『侍従長の回想』)

  

◆国家国民を救った捨て身の御精神

 「『知日派』の総帥は、いまやマッカーサーであった」との象徴的な言葉で評されています。どういうことかといえば、当時のマッカーサーには軍事秘書として、日本文化に造詣が深かったボナ・フェラーズ准将、副官には歌舞伎役者の口真似までできる日本通のフォービアン・バワーズなどの知日派軍人が仕えていましたが、9月27日を境に、マッカーサーが突如として知日派米国人の最たる存在になったということで、このことは、その後の占領政策にきわめて重要な影響を及ぼすことになりました。

 当時、天皇制をめぐって米国務省内では議論が続いており、昭和20年10月22日のSWNCC(国務・陸・海軍三省調整委員会)の会議では、マッカーサーに対し、天皇に戦争責任があるかどうか証拠を収集せよ、との電報を打つことが承認されました。これに対してマッカーサーは翌21年1月25日、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛に、次のような回答の手紙を送ったといいます。

 「過去10年間、天皇は日本の政治決断に大きく関与した明白な証拠となるものはなかった。天皇は日本国民を統合する象徴である。天皇制を破壊すれば日本も崩壊する。……(もし天皇を裁けば)行政は停止し、ゲリラ戦が各地で起こり共産主義の組織的活動が生まれる。これには100万人の軍隊と数10万人の行政官と戦時補給体制が必要である」(高橋紘『象徴天皇』)

 

 こうして、マッカーサーと昭和天皇との間に「初めに敬愛ありき」とでもいうべき鋳型が出来たことにより、戦後実に多くの日本人の命が救われたともいえるものになっています。その点については、当時の農林大臣であった松村謙三氏の『三代回顧録』に詳しく書き留められていますので、ここではその一部のみを記します。

 終戦直後の日本は食糧事情の悪化に直面しており、昭和20年12月頃、天皇は松村氏に対して、「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分には耐えがたい」と述べられ、皇室の御物の目録を氏に渡され、「これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい」と伝えられました。

 そこで当時の幣原首相がマッカーサーを訪ね、御物の目録を差し出すと、非常に感動したマッカーサーは、「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。かならず食糧を本国から移入する方法を講ずる」と請け合ったといいます。

 松村氏は記しています。「これまで責任者の私はもちろん、総理大臣、外務大臣がお百度を踏んで、文字どおり一生懸命に懇請したが、けっして承諾の色を見せなかったのに、陛下の国民を思うお心持ち打たれて、即刻、〝絶対に餓死者を出さぬから、陛下も御安心されるように……〟というのです。……それからはどんどんアメリカ本国からの食糧が移入され、日本の食糧危機はようやく解除されたのでした」と。

 2)昭和50年のアメリカでの公演

 ホワイトハウスでも公式歓迎晩餐会における天皇陛下のお言葉です。

天皇陛下の感謝の言葉

「私は多年、貴国訪問を念願にしておりましたが、もしそのことが叶えられた時には、次のことをぜひ貴国民にお伝えしたいと思っておりました。

と申しますのは、私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国が我が国の再建のために、温かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることでありました。

当時を知らない新しい世代が、今日、日米それぞれの社会において過半数を占めようとしております。

しかし、たとえ今後の、時代は移り変わろうとも、この貴国民の寛容と善意とは、日本国民の間に永く語り継がれていくものと信じます」

それまで『ニューヨーク・タイムズ』には、日米首脳会談のニュースでさえ一面に掲載されたことはありませんでした。

ところが天皇陛下のご訪米は6日連続トップ記事でそれも写真入りで掲載されたのでした。

このように、天皇陛下がアメリカに到着され、陛下を目の当たりにするようになってから、全米での日を追って訪米歓迎の空気が盛り上がりました。

2.「武士道精神」と「もてなし」の心

 大東亜戦争のソロモン海戦でアーレイ・バーク大将は草鹿任一(くさか じんいち)中将率いる帝国海軍と激しく戦いました。

  昭和25年、占領軍の重鎮となったバークは日本人大嫌いで、日本人のことを「ジャップ」「イエローモンキー」と呼び、露骨に日本人を蔑んでいました。

1)一人の女性が結んだ日米の絆

〇一輪の花から始まった出会い

太平洋戦争の終結から5年後の1950年9月、朝鮮戦争勃発の直後のことです。

まだ戦争の傷跡が残る日本に、占領軍の海軍副長として一人の軍人が赴任してきました。アメリカ海軍の提督、アーレイ・バークです。

バークは太平洋戦争中、日米合わせて9万人以上もの犠牲者を出した激戦「ソロモン海戦」をはじめ、駆逐艦の艦長として日本海軍と死闘を重ねてきた猛将でした。

バーク提督が初めて東京の帝国ホテルにチェックインした時、従業員が「荷物をお持ちいたします」というと、「やめてくれ。最低限のこと以外は、私に関わるな!」と語気を荒げました。彼は日本人が大嫌いだったのです。

日本軍の真珠湾攻撃によって親友を失い、以後、続いた戦争で多くの仲間と部下を失ったため、敵であった日本人には激しい憎悪と敵対心を持っていました。

彼は公の場でも日本人を「ジャップ」「イエロー・モンキー」と呼び、日本人を軽蔑していました。ホテルでは日本人従業員が話しかけても、一切無視しました。

日本に来て1か月ほど経ったある日、部屋があまりにも殺風景だったので、バークは一輪の花を買ってきてコップに差しました。

翌日、部屋に戻ってみると、その花が花瓶に移されていました。

バークはムッとしてフロントに行き、「なぜ、余計なことをした。誰が花を花瓶に移せと言った!」と苦情を言いました。しかし、ホテル側は誰も指示した覚えがなく、誰がしたのかもわかりませんでした。

それから数日後。今度は花瓶に新しい花が添えて生けられていました。そして、その後も誰の仕業かわからないまま、花は増え続け、部屋を華やかにしていきました。

バークは再びフロントへ行き、「花を飾っているのは誰なのか、探してくれ」と頼みました。調べた結果、花を飾っていたのは部屋を担当していた女性従業員でした。それを知ったバークは、彼女を呼んで問い詰めた。

「君は、なぜこんなことをしたのかね?」

「花がお好きだと思いまして……」

彼女は乏しい給料の中から花を買い、バークの部屋に飾っていたのです。

「そうか…。ならば、君のしたことにお金を払わねばならない。受け取りたまえ」

「お金は受け取れません。私はお客様にただ居心地よく過ごしていただきたいと思っただけなんですから…」

〇提督の心を動かしたもの

このあと、彼女の身の上を聞いて、バークは驚きました。彼女は戦争未亡人で、亡き夫は駆逐艦の艦長で、ソロモン海戦で撃沈され、乗艦と運命を共にしたのでした。

バークは絶句し、「御主人を殺したのは、私かもしれない」と謝りました。

すると、彼女は毅然としてこう言いました。「提督、提督と夫が戦い、もし提督が何もしなかったら提督が戦死していたでしょう。誰も悪いわけではありません」。

彼女の毅然とした態度にバークは自分の卑小な態度を恥じ入り、以来、日本人のことを「ジャップ」と呼ばなくなったといいます。

 この日から、バークの日本人に対する見方は一変したのです。

 ある時、バークは部下から「ソロモン海戦で戦った草鹿中将が公職追放となり、鉄道工事の現場で人夫としてやつれた姿で働いている」と知らされました。 それを聞いたバークは匿名で缶詰などの食料を草鹿に送りました。 すると数日後、草鹿がバークのところにやって来て「負けたとはいえアメリカ人からこんなものを貰うのは日本人として恥だ」と食糧を突き返しました。 

バークは「自分も草鹿の立場であればそうするに違いない」と思い直し、草鹿に大きな敬意を払い、これが契機となって親交を深めるようになり、より一層の親日家になったといいます。

彼は一刻も早く米軍の日本占領を終わらせ、日本の独立を回復するようにアメリカ政府に熱心に働きかけるようになりました。また、日本の独立と東アジアの平和を維持するために、防衛力の整備を進言し、日本海軍の再建に尽力し、海上自衛隊の創設に力を尽くし、バークは「海上自衛隊創設の父」とも呼ばれるようになります。

それらの数々の功績で、バークは日本から最高の勲章である「勲一等旭日大綬章」を天皇陛下から叙勲されます。米国はもちろん各国から数多くの勲章を授与されていたバークでしたが、1991年、彼が94歳で亡くなった時、棺(ひつぎ)に横たわる彼の胸にはただ一つ、日本の勲章だけが付けられていました。それは本人の遺言でした。

こうして、米国海軍と海上自衛隊には、新たな”海の友情”が築かれることになりました。

2)救援に全力を尽くしてくれた米軍

2011年3月11日、東日本を巨大な地震と津波が襲いました。自衛隊や警察や消防が必死の救援活動をしてくれたことは周知の通りですが、実は、在日アメリカ軍も直ちに現場に急行し、瓦礫(がれき)の除去や多くの救援物資を届けるなど懸命の救援活動をしてくれました。「トモダチ作戦」と名付けられた米軍の緊急支援活動です。

特に、最も早く被災地に着き、昼夜を問わず救援活動をしたのが、米海軍の原子力空母「ロナルド・レーガン」でした。驚くことに、この艦は任務のため韓国に向かっていたのですが、艦長の独断で直ちに針路を変更し、日本の被災地に向かったのです。

東日本大震災から2日後の平成23年3月13日。米原子力空母「ロナルド・レーガン」は日本から1300キロ近く離れた太平洋上を航行していました。米韓合同演習に向かう途中だったからです。

 艦長だったトム・バーク氏は、艦内でCNNテレビの映像にくぎ付けになっていました。そしてロナルド・レーガンを中核とする部隊の司令官だったロバート・ギリア氏に連絡しました。

 「(被災地の周辺海域に)向かうべきだと考えますが、どうですか」。するとギリア氏から「よし行こう」との返事が返ってきた。13日中には仙台沖に到着。同日中に早くも艦内で自衛隊側との調整会議が開かれ、ヘリによる物資の運搬、捜索・救出に加えて自衛隊ヘリへの給油も始まった。

2011年3月11日、壊滅的な地震と津波が東北地方を襲ったとき、ロナルド・レーガンは訓練任務ですでに朝鮮半島の海域に展開していました。進路を変え日本に向かった空母は仙台沖に停泊し、救援任務に取り組む日本の海上保安庁や自衛隊のヘリコプターの洋上給油拠点となりました。また米海軍のヘリコプターも同空母から救援任務に飛び立ちます。トモダチ作戦のピーク時には、およそ2万4000人の米軍兵士と航空機189機、米海軍の艦船24隻が人道支援と救難活動に携わりました。

2011年当時、米海軍厚木航空施設に配属されており、現在はロナルド・レーガンに乗り組んでいるケニー・セベネロ少尉はこう証言します。「何隻もの商船が1キロほど内陸に打ち上げられていた。ビルの屋上に押し上げられた旅客用フェリーもあり、町は壊滅状態にあった」。彼は今でも「トモダチ作戦」の記章を右腕に着けています。「15年間の海軍勤務でいろいろな場所に行き、さまざまな任務に就いたけれど、その中でもトモダチ作戦は非常に印象に残っている。だから今もこの記章を着けているのだ。我々は大きな役割を果たしたし、当時は日本が自分の“ホーム”だった」

「正義に溢れた毅然とした態度と愛は人を変えます。」

3.愛は人を変える

 末日聖徒イエス・キリスト教会の「デビッド・A・ベドナー長老」は言います。

 愛を受けて喜びが得られても、愛を与えることができなかったら、愛は一方通行にしか過ぎません。

・・・・・・・・・個人の責任,すなわち回復されたイエス・キリストの福音を学んで「愛する」という責任を行動で全うすることによって、神から奇跡という祝福を受けることができます。

私たちの先輩、ご先祖の気高い精神(こころ)を学び、世界の平和に貢献したいものです。

 

皆さんのご活躍を祈念しています。


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